昭和56年2月19日 朝
御理解第58節 人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。
教祖様のみ教えは、どこまでも氏子信心しておかげを受けてくれよと仰せられる、天地の親神様の、んー、お心を対し、そして、えー、信心をしなければ頂けないおかげ、いわゆるお徳を受けるという御理解ばっかりだと私は思います。たとえばこの御理解などでも、ただ表面だけを見ると、もー、まあ泥棒じゃの、乞食じゃのといわれるような、あー、時でも、んー、辛抱しておけと、こう慰めてきな言葉のようにも聞こえるのですけれども、んー、そういうときに、この、腹を立てなとこう、仰っておられるところから、思うてみるのに、腹をたてんで済む道理、または、信心を日ごろ頂いていおかねばならんということ、ねー、腹は立つけれども辛抱しろと言われるから辛抱すると言うのじゃない、そういう時に、腹を立てなとあります。または、しっかり信心の、帯をせよとおしゃいます。だから、んー、悪口をいったりする人達に対して、その、今に見ておれ、といったようなものでもないのですよね、しっかり信心の帯をせよということは、ね、いわばこれは、昨日
の御理解にもつながることですけれども、んー、それこそ、人の口には戸は立てられん、ね、どんなに神のおー、気感にまあ、ひれいに、さわるようなことを人が言うても、まあ、はらをたててはならん神が顔を洗うてやると、こう仰せられる、昨日の御教えでしたよね。だからもう、それこそ歯をくいしばって、辛抱しておくと言うことではない。神様が顔を洗うてくださるほどしの、なるほど神様じゃなー、なるほど信心じゃなーと、ま、信心のない人もいい、思われるような、おかげのことなんです、ね、神様が顔を洗うてやると、仰せられる。ために、今日の御理解じゃないけれども、たとえどういうことになっても、どういう場合、どういうことを言われようとも、ね、腹を立てなというところが、じつは難しいんです。ね、腹は立つけれども 辛抱しろと言われるから頑張って辛抱する、というのじゃない、ね、その、いうなら神様の深い御神意、御神慮をわからせてもらい、悟らせてもらうと、腹を立てるだんではないのです。なお、いよいよよく信心の帯をせよと仰せられますから、いよいよ、今までの信心にもう一段と、いよいよ本当な信心を求めて信心を仕上げていく、いよいよ本当なことへ目覚めていく信心を、もー、そのことを通して、お育てをいただくということになるのです。ね、普通でいうならば腹が立たり、情けなかったりする、その情けなかったり、腹の立つようなことで、そん、いまに見ておれといったような根性ではなくて腹を立てずに、そこからの信心をね、高めていく、進めていくということが(・・・)が信心の帯をせよなんです。ねー、だからもう、ますます今まで、えー、まー、いま10分間拝みよったやつを20分も、30分も拝む、ねー、時々参りよったのが、日参りをするといったようなふうに、形の上だけじゃない、ね、神様のお心が分からせて頂いて、むしろそのことにお礼が言えれる、そのことのおかげで信心ができますということになってくるんです。ね、久留米の初代といえばもう、それこそ大変なまあ、御神徳を享けられた先生として、有名です。ね、先生の信心が、どこにそういう御神徳を享けられる元があったかというと、結局、石橋さん、信心辛抱さえしておれけば、物事整わぬことはないぞ、と、御本部でご修行中に、四神金光さまからのみ教えを頂かれた、もう、これこそ久留米の掛守りだとして、それを頂いて帰られた、ね、石橋さん、辛抱さえしとけばよいとは、おっしやらなかった。四神様は信心辛抱であった。ね、信心で辛抱された、一段とその事を通して信心を進めていかれた。いうならば、どういう難儀があっても、どういうことを言われてもおかげで信心がでけるという生き方であった。これが信心辛抱である。そこに、信心辛抱の徳を受けられて、もう、とにかく辛抱せんでもすむような、どんなことを言われても、どんな事があっても、豊かな、大きな心で、ね、ただ、有り難い、勿体無いで過ごされた、もう辛抱しなければならんような事もなくなるほどしのお徳が、私は信心辛抱の徳だとおもうんです。ある親教会である小倉の教会の御大際のあとに、それこそ桂先生のお弟子さんの中でも、きらぼしのようなえらい先生方ばかりが、ずらり並んでおられるとき、始まろうとする時に、桂先生が、ま、上座にお座りになってから、石橋先生にいうておられる、「石橋さん、あんたんとこの息子はばかじゃなー」とおっしゃたそうです。ね、よう石橋先生のことを、見ていうておられるのでしょう。そん時に、もうそれこそ、もう顔色一つ変えられなかった。「親先生おかげで信心がでけます。」とおっしゃった。ね、「石橋さん、でかした」というて、一番に杯をさされた、という話が残っております。わたくしは、この、馬鹿といわれても、あほと言われても、または、なら、乞食じゃ、泥棒じゃと言われても、と言うところはこういうところではないかと思います。ね、ただ、しかも大勢の前で、そういうことを、そのいうてと、たとえば言うようなものではなくて、もう心の中にいつも、そのおかげで、確かに信心ができておるのですから、それがそのまま親先生、お蔭で信心ができるとおしゃった。ね、様々な、たとえば、お互い難儀をもっておる、その難儀から逃れよう、逃れようじゃなくて、その難儀のおかげで、日参もできます、おかげもいただかれます、という、あたくしは、心ばえをもって信心しなければならない。ね、いまに見ておれ、いまにおかげ頂いてというんじゃなくて、昨日、私が頂きました数珠とも金の鎖ともつかなんような、それを、こう一生懸命ひぱって、これをこう切ろうとするのではなくって、そのなかにね、これをこう手を合わせていくということ、そのことに対して、そのことにお礼が言えれるということ、ね、その、お礼が言えれるというその心の状態こそが神様との交流なのである。ね、いうなら、そういうときこそいうならば、神様と交流する前提とも思われるような大事な事柄やら、場合をです、ね、それをその、我でこれを、ひっ切ろうとするような、何を言うかと、俺がいつ泥棒をしたかと、いつ乞食したかと、と、まあ、赤面弁慶になって、それを言い分けしょうとしたり、ね、そういうときでも、腹を立てなと、ね、おかげで信心がで来ますという生き方を、いよいよ身につけてまいりませんと教祖様の御教えがです、ね、もうそれこそ神縁、とにかく深いです。その深い、広い御教えを合楽では、んなら、それを誰んでも意味が分かるように、ね、今日の御理解なんかはそうです。ただこれを聞いただけでは、いかにも、ただどんな場合であっても、辛抱せろ、辛抱せろのように聞こえるけど、四神様が仰せられたという、どういう場合であっても、それを信心辛抱である、信心辛抱の力がついてくる、おかげで、そのことを、とうして、そのことおかげで、信心ができます、という信心、信心のそういうときには帯をせよというのは、日ごろ頂いておる教えをそういう時には、いよいよ実験実証でけるときとして、お礼を申し上げていくような心の状態を、ね、信心辛抱の、いうならば帯をしていくという、辛抱、信心の帯を締めていくこというふうに思うんです。ね、そういう、生き方にならないとお徳になりません。ただ、いまにみとれ、といったようなことで、たとえそれが辛抱されるならば、どれはただの辛抱ですから、ね、頑固になったり、我が強うなるばっかりです。それを信心で辛抱する時に、その一切が解けていく、その一切が有り難いものに変えられていく、おかげで信心がでけますということになってくる、そういう信心辛抱を、ね、いよいよ身につけていかなければならんということでございます。どうぞ